Friday, February 28, 2014

アナタはカミをシンジマスカ〜?


”信じている”とも”信じてない”ともはっきりいえる人は少ない。

なぜならその神に対して私達は知らないことが多すぎるからだ。

自分の存在に疑いがないように、この世界も間違いなく存在している。

神というのは、どこかに座っているあの人ではなく、この世界そのもの。

この世界とは、調和であり、秩序である。

これは、“理解されるべき”哲学であり、“信じる”“信じない”の問題でもない。抽象的な教義や、不確かな考えでもない。

“信じない人” はもしかしたら“信じる人”より人生について考えている人かもしれない。

しかし彼らは、何かの理由で“信じない”ことに決めたのだ。

調和や秩序に基づいてこの宇宙すべてが絶妙なバランスを保ちつつ存在しているのなら、私達の命や生き方も、その秩序の中にある。

それを知るのは意外と難しくない。

私達にとって身近で、とても明らかだからだ。

地球は太陽の周りを回っているし、ジョークがツボに入れば笑いが起きる。

沢山雨が降れば緑が生い茂るし、富士山に登れば空気が薄くて頭痛がする。

そして、私達日本人は、木の葉っぱ一枚にも神様が命という形で宿っているということを知っている。

もし、神様とは「天国という死んだ先で待っている人」だと言われたら、納得するのに時間がかかるかもしれないし、納得出来ないかもしれない。

しかし、私達が言う「神」は、真実、リアリティであって、盲目的な信仰とか宗教ではないのだ。

ちょっとオープンな考え方の出来る人なら、簡単に理解できるし、神に対して感謝に満ちた毎日を送ることができるのである。

写真はバガヴァット・ギーターのワンシーン。
クリシュナはアルジュナに、この宇宙の創造の全てを一瞬にして見せた。>
目のくらむような美しいもの。目を背けたくなるようなおぞましいもの。天国、地獄。地球以外の世界。過去も現在も未来も。アルジュナは、それを見た時、怖く なった。それは、そのクリシュナが表した宇宙の全てに自分の存在を含めていなかったからだ。このストーリーには、自分と世界を分けてしまうことが、心に恐 れを生む、という哲学的な意味が込められている。


Thursday, February 27, 2014

今日はシヴァの日【シヴァラートリ】シヴァの第三の目の秘密。

今日はシヴァラートリ。シヴァ神のお祭りです。

この日は、とても縁起が良い日。おめでたい、幸せに満ちた日です。

シヴァ神の“シヴァ”がサンスクリットではまさに「縁起の良い、幸福な」という意味であることが、今日一日が特別な日であることを示しています。

インドのお祭りには、ディーパーヴァリに代表される、新しい服を着て美味しいものを一日中(どころか約一週間!)食べて家族で賑やかに過ごすもの。

そして、シヴァラートリに代表される、厳格で、メディテーションをして身も心も神様のそばで一日過ごすような精神的なお祭りがあります。そのため、キッチンに立ってご飯を作る暇も、食べる暇もありませんので、多くの人は断食をして過ごします。

インド中の全てのシヴァテンプルでは、盛大なプージャが行われます。

今年はテンプルに行けないので(涙。)、、、家でスペシャルプージャを行いました!



いつもよりお花がいっぱいで、神様たちが埋もれちゃってるー。

シヴァの第三の目にはどんな意味があるの?

 シヴァの名前の一つにトリャンバカ  त्र्यम्बकम्(tryambakam) があります。
トリは、3つの。 アンバカは目。トリャンバカは3つの目を持つもの。という意味で、シヴァを表します。

この3つの目は、この世界を照らすことが出来る3つの光の象徴です。
 
一つの目はスーリヤ(太陽)でもうひとつはチャンドラ(月)そして、第三の目はアグニ(火)を表します。昔々、太陽も月も出ない月食の夜は、火を焚くことで光を得ていたからです。


第三の目が象徴するもう一つの大切な意味


右左の目は、肉体の目。私達はその2つの目を使ってこの世界を認識することが出来ます。

そして第3の目は「知識」の目。

私達の2つの目では見ることが出来ない、この宇宙の創造の後ろに隠れてしまっている真実を見極める目です。

チャーンドーギャ・ウパニシャッドで、先生と生徒のこんなやりとりがあります。

先生は、生徒に塩水の入った器を差し出し聞きました。

先生「なにか見える?」
生徒「水、、」
先生「どんな水?」
生徒「塩が溶け込んだ水」
先生「どこに塩があるの?浮かんでる?沈んでる?見えるの?」
生徒「見えません!」
先生「これが塩水だって、確認してみなさい。」

そして、生徒は口にその水を含み、その水には塩が溶け込んでいることを確認することが出来ました。

これが塩水だということを知るためには、目ではなく舌を使う。それは、ある感覚器官で確認できないことでも、別の方法で確認することが出来るということを示しています。

聖典は、私達は五感を使ってこの世界を知ることができる。しかし、塩のように溶け込んで、隅々まで行き渡っているこの世界の「真実」を知るためには、五感以外の方法でしか知ることが出来ないと言っています。

そしてその唯一の方法が、「知識」。ニャーナンです。

第三の目は知識の象徴であることから、ニャーナアグニ(知識の炎)とも呼ばれます。

このトリャンバカ、シヴァ神に祈りを捧げることで、きっとシヴァは私達にも真実を見極める第三の目を授けてくれるでしょう。

Saturday, February 1, 2014

幸せになるための第一歩は、幸福を探し求めないことから。

私達は、“幸せ” が大好きです。

幸福や喜びを手に入れるために、様々なものに心惹かれ、手に入れた幸せが逃げていかないよう囚われます。

幸福は、私達の本質。

なので、幸せでありたいと望むこと、喜ばしいことを求めることは決して自分勝手なことではありません。

ヨーガの教科書などに、「執着」について書かれていることがあります。

皆が幸せでありたいのに、執着するなとか、執着を手放せとは一体どういうことでしょう?

ヴェーダーンタでは、自分に幸せ与えてくれた物の本質を知りましょう。と言っています。

この世界から手に入れることができるのは、何一つとして普遍的ではありません。

自分の幸せのモトとなっているのが、「物」や「お金」や「人」だったとしたら、、それは、あなたを不幸にする可能性もあります。

その時の自分が受け入れられたから、自分にとって好都合だったから、幸せ。

自分を受け入れてくれたことで、その人がまるで自分に幸せを与えてくれるような錯覚に陥いりがちです。

でも、次の瞬間その人が私を否定するかもしれない。そんなことがあったら、その人は自分の幸せをさらっていってしまいます。

幸福、または不幸という状態に対して客観的になること。  

自分を幸せにできるものは、不幸にも出来る。

なので私達は、本当に幸せになりたければ、外のものに頼るのではなく、自分自身の中に見つけていかなければならなりません。

しかしそれは、決してこの世界と自分を切り離そうとしたり、この世界に何も求めない、期待しないという意味ではありません。

自分自身の中に幸せを見つけるために、できることは何?


少しずつ少しずつ、幸せを求めたり自分を満足させようとあれこれ探しまわるのをやめてみましょう。

そうすることで、既に自分が持っているものに価値があること認め、大切にすることが出来るようになります。

私達が外に幸せを求めるとき、それは、自分が幸せでないと結論づけてしまっている時。

潜在的に出しているその結論は、正しいものではありません。

外に求め、探し求めることを出来るだけギブアップしていく。

まずはコップ一個でも恋人でも、今既に持っている物や人を大切にし、他を手に入れることで補おうとする前に、その中にもう一度その中に価値を見出してあげる。

そうしていくことで、最後には自分自身を認め、大切にすることが出来るようになり、自分自身の中に幸せを見つけることが出来ます。

そして、シンプルでミニマルな生活にも繋がりそうですね。





photo credit: Rakesh JV via photopin cc

LinkWithin

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...