Tuesday, October 15, 2013

知識の女神様、サラスワティのプージャ


13日は女神サラスワティのプージャが行われました。

9日間にわたって行われたナヴァラートリ、3人の女神様(ドゥルガー、ラクシュミ、サラスワティ)を祀るお祭りの最終日です。

サラスワティは知識を象徴する女神様。

知識が形となったものである「本」を神棚に供え、プージャが行われました。

写真の後ろに山積みになって布がかけられているは私達の大切な本達です!

サラスワティはどんな女神様?


サラスワティは白いサリーをまとっています。

白い蓮の花の上に佇み、そばには白鳥がいます。

サラスワティについては教育の母として、ヴェーダーンタ入門でも触れています。
4-1. ブラフマチャーリ アーシュラマ - ब्रह्मचारि आश्रम

白はすべての色から自由な色。

それは、「知識」を象徴しています。

こんな時ありませんか?


新聞や本を読んでいるとき、頭にスーッと入ってくる。

今まで解けなかった問題が急にクリアになった。

人の話を集中して聞くことができた。
自分の考えがうまく伝えられた。
ひらめいた!

そんな時、知識の女神であるサラスワティの存在があります。

サラスワティは、インドの占星術ジョーティシュでは、第2室の守護神でもあります。

2室は、ワーク スターナ。スピーチ、言葉の室です。

ヴェーダの聖典では、良い言葉を話すことは、タパスとして人びとが練習すべきこととされています。

その言葉を口から出すかどうか、OKを出すのは自分自身。

真実を話す。
わかりやすく話す。
聞く人にとって心地よい言葉を話す。
意味のあることを話す。

良い言葉を話すことはサラスワティへのワーシップ(崇拝)につながります。


人を成熟に導くことが出来るのは、お金でも名声でもなく、知識のみ。

私達にはサラスワティの祝福が必要なのです。




Sunday, October 13, 2013

ただいま帰国の準備中



ダヤーナンダ スワミジの元でヴェーダーンタ、サンスクリットを学ぶ3年のコースも後残すところ2週間です。

先週、ヴェーダーンタの勉強の上でもっとも重要とされるブラフマスートラのテキストが終わりました。

残すのはバガヴァット・ギーターの最後の章、18章のみ。18章は、72節からなる大きな章でありギーターの総まとめでもあります。そのためシャンカラ アーチャーリアが綿密なコメンタリーを残しており、時間が限られた今、夕食後のサットサンの眠〜い時間までを使って追い込んでおります。

先週、個人的にスワミジとお話する機会がありました。

コースが終わった後、高校生時代まで過ごした福島の郡山市に帰るか、東京に帰るか考えていました。 郡山の私の育った家は、広いリビングルームがあり、ヨガやヴェーダーンタの教室などが、すぐに始められます。その反面で、友達や知り合いも殆どおらず、放射能の心配もあります。

高校卒業後は、東京で生活していましたので、親しい親戚や友達もおります。しかし、仕事をしながら家賃を払わなければなりません。当たり前ですが。。。。当たり前ですが、最後に職場を離れて丸5年。そのうちインドの山奥のアシュラムにこもること3年。私にとって日本は既に地球の裏側のジャングルのような未知の世界。果たして私は生き延びていけるのか?と、思うのです。

スワミジは「東京か、近くの人口の多い都市に行きなさい。生活のためのお金を稼ぐためにヨーガ関連か、そうじゃなくても、仕事もたくさんあるはずだし、きっと、ヴェーダーンタを習いたい人もたくさんいるから、教えるチャンスにも恵まれる。よく頑張ったね!ついに、コースも終わりだね!」と笑顔でおっしゃいました。

やさしい。。。

お陰で、東京で頑張って行く覚悟が出来ましたよ。

どうやって、始めていこうかな。

いろんな人に会って、たくさんの助けやアドバイスをもらいながら、少しずつヴェーダーンタやサンスクリット、ここで習ったことを伝える機会を作っていこう。

このブログを書いていることも、まだ誰にも言っていないから少しずつ広めていかないと。


一昨日、荷物をダンボールにまとめ始めました。

いよいよだなぁ。。。。






Sunday, October 6, 2013

客観的に物事を見る練習


自分の家族、友達、同僚、自分を取り囲む人びとは、自分自身ではないにもかかわらず心の中で大な存在を占めています。

メールしたのに返事をくれない。
嫌味っぽかった。
今日は、目も合わせてくれなかった。
他の人とは楽しそうに話しているのに!
せっかく、あなたのために予定をあけておいたのに!

相手が自分の思うような反応をしてくれないと、彼、彼女は自分の心の内側に長いこと滞在し続けます。

彼らは自分以外の存在にもかかわらず、今や自分の心の深い深い所にじーーっと座っています。

そんな自分に疲れます!

自分の外側にいる人たちを、そのまま外側においておいてあげる。

そうすることでより、自分を少し自由にしてあげられます。

どうやって?

自分がスペースを持っているのと同じように、彼らのもつスペースがあります。

彼らには彼らのスペースを与えてあげましょう。

どうやって?

私と目があった時、彼は私から目を逸らした“ように見えた。”

でも、自分がそう思ったのは間違いだったかもしれない。

彼が自分の事を全て知らないように、自分も彼の事を全て知りません。

なので自分の解釈は、必ず「部分的には」間違っているということになります。

大事なのは決して、「あの人は、こういう人だ。」と、結論づけてしまわないこと


「今、私の目には彼はこのように映った。」

「そう見えたけど、でも、違うかもしれない。」

これが、客観的に物事を見るということ。

私達は、自分の作り上げた狭い世界で生きてしまいがちです。

客観的になることで、より「全体」を見ることが出来るようになります。






photo credit: michibanban via photopin cc

Sunday, September 22, 2013

体験で得られる「自由」を最終ゴールとしないために。「ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作」


今日は脳科学者のジル博士のビデオを紹介しつつ、「自由」を求める私達が間違った方向に行ってしまう可能性について少しお話します。


映像はこちらのリンクから!日本語の字幕もありますよ。

Jill Bolte Taylor: My stroke of insight


脳科学者のジル博士。彼女はある時脳卒中に襲われ、脳科学者なら願ってもいない「脳を内側から観察する」というチャンスを得ました。

このTEDでのプレゼンテーションで、ジル博士は、右脳の働きを自身の脳卒中の体験から語っています。

それは素晴らしい体験だったそうで、その時の状態を「ニルヴァーナ!」と何度も何度も言っていました。

ジル博士はこんなことを話しました。

***

人間の「右脳」と、「左脳」は全く別の人格を持った別々の個体で、2つをつなぐ「脳梁」によって情報交換がなされ、統一され、一つの脳としての役割を果たします。

「今」を生きる右脳君は、「今!この瞬間」がどのように見えて、どのように聞こえ、触れて、臭うのか、、五感が集めてきた全てのエネルギーが情報となり集められ、大きなキャンバスに描かれます。そこには「私」という、自分と世界を区別する境界線はありません。

「過去」と「未来」を一本の線で結びつける左脳君は、右脳君が集めてきた情報を過去の情報と結びつけて、未来を予測したりもします。左脳くんは「言葉」で考えます。左脳くんが「私」といった時から「私」が切り離され「個体」となります。過去の情報を引っ張ってきて、「帰りにトイレットペーパー買うの忘れないで」などというのは左脳君だそう。

左脳君が傷ついて機能しなくなってしまったのが、ジル博士のその時の状態です。

その時ジル博士の中で生きているのは、右脳君のみ。

ジル先生は、この右脳君のみの世界を「ラララ♪ランド」と名づけました。

過去も未来もない、自分と世界の境界線も無いたった一つのこの世界は、平和な感覚で満たされていて、「全体」で、ストレスがなくて、ただただ美しいものだったと。

最後の締めくくりで、彼女は、その時その時、自分たちはどのように脳を使うことが出来るかを選ぶ事ができると言っています。

右脳君とともにハッピーな私でいたいのか、左脳君と寄り添って理知的な私でいたいのか。

意識して、右脳君に歩み寄って、平和を見出すことが出来るのです。

***

ジル博士が言いたかったこと


今の私達の生活は忙しくて、計画通りに物事を進めていかなければならなかったり、未来の心配をしなければならなかったり、過去に引きずられてしまいがちです。つまり、左脳君が大活躍しているわけですが、あまり幸せでないのも事実です。

ジル博士は、右脳の紹介をすることで、ストレスに押しつぶされそうな現代の私達がもうすこし気楽に生きることが出来るように、「考え方の選択肢」、つまり、左脳で考えすぎるという「癖」を見直していくことができるという提案をしています。自らの経験を語ることで、人びとに生きる希望を与えたいと。その瞬間瞬間で良い方を選択する力をつけることが出来ると。

「そうだ、ラララ♪ランドに行こう。」というありがちな解釈


ジル博士は決して、「ラララ♪ランド」に平和への解決があり、皆でそこへ行きましょう。と言ってるのではありません。

彼女はヒッピーのリーダーではなく、知的な脳科学者ですので。

彼女はこの体験を「ニルヴァーナ」と呼んでいました。

この「ニルヴァーナ」、沢山の人に様々に解釈されてしまっています。

メディテーションやヨガ、スピリチュアルでサイケデリックなパワーを高めることで「ニルヴァーナ」を得られるものだと思っています。

ハッピーで、争いや苦しみのない世界、だと思っている人もいます。

ニルヴァーナが「ラララ♪ランド」だと思っていて、それを体験したいのなら、左脳を麻痺させる注射でも打てば良いわけですが、真面目な人はヨガやメディテーションなど、自分の力で「ラララ♪ランド」へ行こうと、そこを目的地として、地道な努力をするわけです。

しかし。。

本当の「ニルヴァーナ」は、体験で得られるものではありません。
体験そのものを指す言葉でもありません。

サンスクリットの「ニルヴァーナ」はヴェーダの経典の中ではあまり出てこない言葉ですが、「苦しみからの開放」つまり「モークシャ」を意味します。ブラフマン(唯一の存在、真実)を指すこともあります。仏教で言うと「悟り」でしょうか。

ヴェーダの経典で言われているモークシャ「苦しみからの開放、自由」は「絶対的」なものであり、殴られても痛くないとか、ゴキブリがいないとか、天国のような世界への現実逃避ではありません。

殴られて痛いにもかかわらず、にっくきゴキブリの存在にもかかわらず、「自由」なのが本来の意味のモークシャです。

「ラララ♪ランド」のようにいくら素晴らしいものであっても、体験で得られるもの全ては「比較的」なものであり、「終わりがある」ということを、経典は繰り返し言います。

つまり、「比較的」で「終わりがあるもの」が欲しいですか?そこを最終目的地に設定しますか?と私達に問いかけているのです。

「ラララ♪ランド」の存在を可能にしている何かがあるはずです。

「ラララ♪ランド」を体験する脳を脳として機能させている何かがあるはずです。

言うなれば、「ラララ♪ランド」から帰ってきた時に再会するであろう”苦しみ”の存在すらも可能にしているものです。

それを知りましょう、と経典は言っています。

激しく移り変わるこの世界と、私達が通りぬける様々な体験にもかかわらず、唯一変わらないもの。

それがブラフマン、「真実」であり、自分と世界の境界線がない「絶対的」に自由な「私」なのです。


せっかくのジル博士の素晴らしい知識と経験を取り違えて、目指すところを間違わないように。。

のためのノートでした。




photo credit: opensourceway via photopin cc

Monday, September 9, 2013

今日はガネーシャを祝う日。ヴィナーヤカ・チャトルティ


今日は新月から数えて4日めチャトルティ。

ガネーシャの日です。

特に今回のヴィナーヤカ・チャトルティは、一年の中でも特にお祓いのパワーが高いそうで、インド中でお祝いされています。

みなさんも今日はガネーシャにお願いごとをしてみましょう!


今日はガネーシャにまつわる小話を、プラーナから一つ紹介します。



***


どっちが早くこの世界全てを見て回って帰ってこられるか。

ガネーシャと弟のカールティケーヤが競争することになりました。

ガネーシャはどっぷりとしたお腹で、乗り物も小さなネズミ。

それに反してカールティケーヤはスリムだし、孔雀に乗って雷のような速さで移動することができる。

カールティケーヤはもちろんオレの勝ちに違いない!と確信していたに違いありません。

ところが、カールティケーヤが帰ってきた時、そこには大好物のモーダカをモリモリ食べてすっかりくつろいでいるガネーシャの姿が!!

ガネーシャの勝ち!

しかも、カールティケーヤが帰ってくるまでに世界をゆ~っくりと3周も回ってきたと言うのです。

カールティケーヤは尋ねました。

「一体どうやって??」

ガネーシャは答えました。

「お父さんとお母さん(シヴァとパールヴァティ)が僕にとっての世界全部だからね。二人を並べてその周りを回ったんだよ!」

そしてガネーシャは勝者として認められ、神様界のリーダーの名を欲しいままにしました。


***

可愛らしいお話ですね!




photo credit: What What via photopin cc

Saturday, September 7, 2013

タミルナドゥ、グルクラム卒業旅行!


アシュラムのメンバーで行く、4日間の旅。事実上の卒業旅行となりました。

チェンナイ市周辺のテンプルや遺跡を巡る旅、真夏の部活動を思い出させる強烈な日差しにタイトなスケジュールで、予想以上にヘトヘトです。 

2日間死んだように眠り続けてますが、まだ回復の見込みが立っていません。。

詳しくは今度余裕があるときに!

訪れた場所はどこも息を飲む美しさでした。本当に行ってよかった!

今日は遺跡の写真だけご覧ください〜!



この創造を支えているヴィシュヌ神
滞在先アシュラムのダクシナムルティ
シーショアテンプル
同行してくれた学者サン。
暑さで次々と脱落者が現れる中、最後まで生き残ったのは80歳を超える彼!
シヴァリンガムが中央にある花。
チダンバラン テンプルの門のガネーシャ
日も暮れかけたところで、帰路へ。



Saturday, August 31, 2013

チャイの時間【マヌ法典】 ◯◯を盗んだ人は、生まれ変わったら☓☓になっちゃいますよ。


マヌ スムルティ(マヌ法典)は、ヒンドゥー教のベースとなる、ヴェーダの時代の人びとのための指南書です。

人びとの生活が垣間見れるので楽しく、たまに息抜きでパラパラとめくってます。

中でも、もっとも息抜き度が高い、

「 ◯◯を盗んだ人は、生まれ変わったら☓☓になっちゃいますよ。」

のコーナーをちょっと紹介。
***

【12-60】ルビー、パール、サンゴなどの宝石を盗んだ人は、金細工職人になる。

【12-61】穀物を盗んだら、ネズミになりますよ。合金を盗んだら、鴨になるカモ。
はちみつを盗んだら、ハエ。牛乳を盗んだら、カラス。ギー(澄ましバター)を盗んだら、マングース。

【12-62】生鮮野菜を盗んだらハゲワシ。脂肪を盗んだら海鳥。オイルを盗んだらゴキブリ。塩を盗んだらコオロギ。ヨーグルトを盗んだら鶴。

【12-63】シルクを盗んだら、キジ。麻を盗んだらカエル。コットンを盗んだらトカゲ。モラセスを盗んだらヴァーグダという鳥。

【12-64】香料を盗んだらモグラ。葉っぱの野菜を盗んだら孔雀。料理されたご飯を盗んだらスワーヴィット(なんだかわかりません。。)料理されてないご飯を盗んだらヤマアラシ。

【12-65】火を盗んだらガチョウ。楽器を盗んだら黒蜂。色のついた布を盗んだらチャクラヴァーカ(?)

【12-66】鹿か象を盗んだ人は狼に。馬を盗んだら虎に。根菜を盗んだら猿に。女性を盗んだら熊に。水を盗んだらチャータカ(雀?)に乗り物を盗んだらラクダに。その他の動物を盗んだらヤギに。


ふぅ。。。

今日はこんぐらいにしといたるわ。

ゴキブリを見たら、「あなた前世で油を盗んだから、こんなテカテカなお姿になってしまったのね。」と、慈悲深く見守ってあげてください。






Friday, August 30, 2013

ケーララへの旅、三日目と四日目


3日めはマドゥルテンプルから数キロ、アーナンタプラという丘の上にあるパドマナーバ(ヴィシュヌ神)テンプル

アーユルヴェーダの神様でもあるそうで、百を超えるアーユルヴェーダの薬剤がミックスされご神体に塗られているそうです。

池の真ん中にあるお堂。ここのテンプルも、日本のお寺を思わせます。

ここの名物は「ワニ」。

ここの池に生息するワニさんは御年50歳、なんとヴェジタリアンだそうです。

テンプルがお供えするご飯を食べて生きているそう。

「ワニ、いたーーー!」

大はしゃぎです。

子どもたちの池への侵入が許されているのは、相手がヴェジタリアンワニだからでしょうか。


そして午後は、私の「海が見たい!!」というリクエストに答え、カーサルゴッドのフォート(砦)に連れて行っていただきました。

歴史上の詳しいことは忘れてしまいましたが、、、外敵を見張っていた場所だけあって、眺めは抜群。

延々と続くビーチと、ココナッツの森。

愛してるよ、ケーララ。

フォートの隣にあるハヌマーン テンプル で夕方のプージャに参加してこの日は終了です。


4日目の最終日は、朝にドゥルガーデーヴィ(女神様)のテンプルにお参りした後駅に向かいました。

コインバトールへの電車の旅。

昨日フォートから見たココナッツの森を通りぬけ、電車はガタゴトと進みます。

エアコンの車両が取れなかったので、窓のない2Sクラス。

風が気持ちいい〜!

と思ったのもつかの間、身体は汗とホコリでベタベタに。

人の乗り降りが激しく、ローカル色満点。

インドっぽさを満喫したい人にはお勧めです。


4日間のケーララの旅、無事終了。

「インドなのに、こんなに全てが順調にいっちゃっていいんですか!?」

という、良い意味で期待を裏切られた旅でした。

たくさんの人の温かさに、見守られていましたものね。




Wednesday, August 28, 2013

ケーララへの旅、二日目


今回私達の旅の手助けをしてくれた一人、私達のアシュラムのプジャリ(司祭)さん。

彼の故郷であるケーララ州のカーサルゴッドでの滞在を全てアレンジしてくださりました。

現地では、彼の友人であるマドゥルテンプルのプジャリさんが、私達を大切なお客様として迎えてくださいました。

カーサルゴッドには、ものすごくパワフルなことで有名な、マドゥル テンプルというガネーシャのお寺があります。

サルヴァ シッディ カーラ、 どんな願いでも叶えてくれると言われている、このテンプルのガネーシャ。

旅行の前に、インターネットで写真を見た時から一目惚れしてしまったこのお寺。



広い空間の中に、時代を超えてきた宇宙船のようにぽっかりと浮かぶお堂。

何時間でも座っていたい、日本の神社のような穏やかな雰囲気です。



その朝、ガネーシャのホーマ(火を焚く儀式)を行いました。


ガネーシャは、困難を取り除いてくれる神様でインドのテンプルには欠かせない存在です。





このテンプルのガネーシャが、特にパワフルだと言われる所以は、南を向いて座っていることから。

南はヤマ(死)の方角であり、そちらを向くことが出来るのは時間を超えた神様のみなのです。

そして、私達は神様に向かった時に自然と北を向くことになります。
北はモークシャ、つまり私達を自由へと導いてくれる知識の象徴です。

マドゥルでのホーマの後、街で行われているホーマに向かいました。

こんなに大きなホーマはなかなか無いので、居合わせることが出来た私達はとてもラッキーだそうです。全ての困難を取り除いてくれるというこの大きなホーマ。神様はドゥルガー デーヴィ、女神様です。


今まで見たこともない大きさのホーマ クンダ(お供物を火に捧げるための穴)。

インドでは、火がお供え物を神様に届けてくれるとされており、全ての儀式で火が使われます。

4時間に渡るホーマのあと昼ごはんという名のプラサーダを頂き、またマドゥルテンプルに戻りました。

人だけでなく、牛様にもご飯が振る舞われます。


これも偶然だったのですが、その日は満月から数えて4日目の、月に一度のガネーシャの日でした。

夜に行われたサンカタ ハーラ のスペシャルプージャにも参加。


私の中に積もりに積もったいらないものをぜ~んぶ落としきったような一日でした。

ケーララの儀式は美しい。。。

達成感!








ケーララへの旅、一日目。


インドに来てからほとんど「旅」というものに縁がなく、休みがあってもアシュラムで過ごすことが多かったこの3年間でした。

今、2週間という最初で最後の大型のお休みのまっただ中。

どこへも行かずゆっくりする予定でしたが、不思議な御縁が重なって、あれよあれよという間にケーララ州へ呼ばれて行くこととなりました。

旅の一つの目的は、カルナータカ州のマンガロールにある「マンガラ・デーヴィ テンプル」を訪ねること。

とってもパワフルであるというこのデーヴィ、女神様は、結婚の神様。

説明書きによると、「ここでプージャをした乙女は、良い人柄の、教養のある、リッチで、ハンサムな旦那さんを手に入れ、幸せで豊かな家族生活を送ることが出来る」とのこと。

本当ですかっ!?

このテンプルを紹介してくれたのは、私がインドに来て右も左もわからない時から、お母さんのように気にかけていてくれていた、インド人の友達。

彼女が気がかりな事はただひとつ、

「ヴェーダーンタを勉強した、年頃をとうに過ぎてしまった女が、果たして無事に良い男性と巡りあい、結婚出来るかどうか。」

そりゃ、私も気がかりですよ。
インドで勉強しているのは自分の意志ですが、結婚しないことまで選んだつもりはないですから。

ここインドでは、結婚はおめでたいことであるだけでなく、社会に貢献しながら人が成長するためのステップとして、とても大事に考えられております。

いくらヴェーダーンタで“ONENESS”という素晴らしい勉強をしても、社会の一員としてきちんと役割を果たしていくことが出来なければ、せっかくの知識が台無しですからね。

という訳で、最もパワフルだと言われるデーヴィの日である金曜日、行ってまいりました!

電車で約7時間。

その日は、夜9時のプージャまで、朝から断食です。

神様にお願いごとをする時、何かを犠牲にしなければならないのがインドの掟。

でも、フルーツはOK。
 
厳し過ぎないところもインドです。

写真は初体験の「ドライブスルー」のフルーツ屋さん。

窓開けて「りんご1Kg」といえば新聞紙に包んで渡してくれます。

バナナが豊富なケーララ。パッと見ただけでも5種類はありますね。

シャワーを浴び身を清め、サリーを着て、頭に花を飾り、いざ出陣。

インド人は毎日テンプルに行くので、夜9時だというのに人で溢れかえっています。

ご対面したデーヴィ、プージャとも、ものすごいパワーを発しており、これは期待できそう。
 
そして、プージャ終了後はプラサーダで頂いたクムクムを41日間眉間につけます。


今後が楽しみ!




2日め以降もお楽しみに。




Sunday, August 18, 2013

「受け入れること」と「我慢すること」

「受け入れるということ」は、「我慢すること」ではありません。

我慢とは、自分から出てきた感情、反応を抑えこむこと。

受け入れることとは、今起きていることを把握し、認め、同時に、周囲の状況などに合わせて対応することです。

今ある自分の状況を受け入れることができた時、心は和らぎ、落ち着きます。

そして、その状況にどのように対応するべきかを、落ち着いた気持ちで決めることが出来ます。

そこからどのように対応するかは「アクション」、自分の意志に基づいた行いです。

大切なものを失って悲しい。
何か痛いことを言われてカチンと来る。

全ての感情は、外からの働きかけに応じて起こった心の動き、「リアクション」であり、誰にも止めることは出来ません。

そして、リアクションを、だた押さえ込んだ時の反応は衝動的になりがち。

正しい判断を狂わせてしまうだけでなく、イライラや、ストレスをためる原因となるかもしれません。

今の状況も、自分に起きたリアクションも、紛れも無い事実。

否定することも打ち消すこともできませんし、その必要もありません。

しかし、その後の行動に関して、私達は自分の意志を自由に使うことが出来ます。

愛情をもって接するか。
逃げるか。
打ちのめすか。

自分自身にとって、もっともよい選択はどれでしょうか。

受け入れるということは、周囲の状況と、自分に起こったリアクションを理解すること。そして、よりよいアクションをするための土台を作る準備でもあります。





photo credit: denise carbonell via photopin cc

Friday, August 16, 2013

8月15日、スワミジの誕生日


8月15日は、師匠であるダヤーナンダ スワミジの誕生日でした。

その日、スワミジは、アメリカで待っている生徒のためにメッセージを送りました。

短いものでしたが、スワミジの人柄があらわれた温かいメッセージでしたので、覚えている限りを書き留めます。

***

人が成長している限り、誕生日とは喜ばしいものです。

身体の成長が止まってからは、年を取るごとに衰えていくだけ。

それは全くめでたいものではありません。

それでも私たちは誕生日が来る度に祝います。


それは、身体以外にも、成長する部分があるから。

人が心というスペースを持つ限り、いくらでも成長の余地があります。

心の成長、内面の成長、成熟があります。

心の成長には、思いやりの心を育てることや、怒りをどのように乗り越えるかなどがあります。

難しい場面に遭遇した時、自分の苦手な部分、足りない部分、成長していない部分が表面に現れてきます。

その時、自分がどのように振る舞うか。

そここそが、自分が成長することができるスペースです。

親しみやすい人になりたいなと思ったら、親しみやすい人がしているように振る舞ってみる。

愛情豊かな人になりたかったら、愛情豊かなように振る舞ってみる。

Fake it till you make it !

そうやって人は成長していくのです。

大切なのは、実行すること。


お誕生日おめでとう!






Tuesday, August 13, 2013

田上富久長崎市長の「平和宣言」。「ダルマ」と「アダルマ」の関係。


8月9日 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典において、田上市長による「平和宣言」が行われました。

田上市長がどのくらい日本の国の政治に影響を与えているのかは分かりません。

それでも、今回の平和宣言は、原爆投下を歴史上の出来事と教科書の中での出来事のように考えている私達に、改めて考えるきっかけを与えました。

このメッセージから、「平和を優先すること」そして「核による犠牲者を出さないこと」を被爆国の立場から訴えていく意志が読み取れます。

何よりも平和を優先すること。


第二次世界大戦での主な敗戦国はドイツと日本です。

ドイツは戦争で起きた非人道的な行為に深く反省し、今ではヨーロッパでの平和へのリーダーとなっています。

日本にも、ドイツのように、過去の教訓から平和に対する強固な姿勢を貫いてほしい。

核不拡散条約にサインしなかったのは、他の国からの攻撃があった時に核で対抗しようとしているからでしょうか。

諸外国と絡む政治的な要素があるからでしょうか。

どちらにしてもそれではまるで、将来、核爆弾を落とし合うという状況が訪れるかのようです。

「非核宣言」での、「核兵器の犠牲者になるのを拒む」ということは、「核兵器の犠牲者を出さない。」つまり、「日本が核兵器の加害者ならない」ということでもあるはずです。

日本も、核不拡散に向けての姿勢を示して、開発に向けてのアドバイスにすら加担しないという強い姿勢がない限り、本当の「平和」そして「非核」はありえません。

核による犠牲者を防ぐということ。


「平和宣言」の中ではあまり触れられていませんでしたが、私達はまだ収束していないどころか、先の見通しも立たない原発問題も抱えています。

福島の原発問題から、核や原発は私たちの手に負えるものではない。ということがはっきりわかりました。

地域の住民だけでなく、日本国全部が放射能の汚染に怯えています。

目に見えなく匂いもない放射線は、空気、土、水、全てを汚染し、更に海に垂れ流され、このままだと、地球上の生き物の生命を維持するための環境を破壊し続けます。

私たちに出来るのは、これ以上核の犠牲者を出さないために脱原発を目指していくこと。

今回の「平和宣言」を読んで、田上市長のような考えの出来る政治家がいることを嬉しく思いました。

欲を言えば、核犠牲者である長崎市の立場から、もっと積極的に原発の問題に触れて欲しいです。

このように、過去から学び、世界にメッセージを送ることができる政治家がたくさん現れれることを望みます。

「ダルマ」と「アダルマ」の関係。


サンスクリットで、「ダルマ」という言葉があります。

ダルマとは、調和、秩序。

ダルマが守られている時、平和があります。

その反対に、調和を乱す行為を「アダルマ」といいます。

ダルマとは、本来なら、この世界に普遍的にあるものであり「手に入れるもの」ではありません。

ではなぜ、私たちの平和が脅かされているのかというと、アダルマによって秩序が乱れているからです。

アダルマは、ダルマとは違い、完全に人の意志、行動に基づいたもの。

つまり、誰かがアダルマを起こさない限り、ダルマが壊れることは無いはずなのです。

誰かが核爆弾を落とさない限り、平和が保たれるように。

ダルマを守っていくこと、それが私達にできること。

この「平和宣言」が世界中の人たちの平和への指標となりますように。

 
 長崎平和宣言 
とてもわかり易い「解説書」もあります。






Tuesday, August 6, 2013

ページを更新しました。【ヴェーダーンタ入門】


ヴェーダーンタ入門、カルマヨーガについてを更新しました。

下のリンクまたは、トップページからアクセスしてください。

■ ヴェーダーンタ入門






 


Saturday, August 3, 2013

【ご参考】アドヴァイタ ヴェーダーンタと、ヴェーダーンタは同じです。



ヴェーダーンタといったらアドヴァイタです。

なんでこんな話をするかというと、このブログのタイトルに、「アドヴァイタ」という言葉を入れているので、ヴェーダーンタとは違うのかと思う人がいるかもな、と考えたからです。

ヴェーダーンタの中に、アドヴァイタという学派があるとか、そういうことではありません。

ヴェーダーンタの教えの軸が、アドヴァイタなのです。

アドヴァイタの意味は、「2は無い」ということ。

2といったら、2から始まり、無限大∞までの数字すべてを含みます。

それが何を示すかというと、この世界全部です。

青い空、工事の音、白いご飯の味、10分前、優しい気持ち、痒い、お腹すいた、テレビの中の芸人、全部と言ったら全部。

私の前に立ちはだかる果てしなく広がったこの世界。

そしてこのアドヴァイタ、「2は無い」と言うことで、世界を否定しているわけではありません。

2がないのなら、ゼロか、イチでしょう。

ゼロではないです。

理由はそのうちお話します。

答えはイチです。

この世界に、もしイチしかないとしたら、イチがこの世界全体のはずです。

曇り空、ピアノの音、赤飯の味、10分後、ひん曲がった気持ち、くすぐったい、お腹いっぱい、テレビ、全部と言ったら全部。

イチに含まれます。

2以上の数えきれない私の世界は、全部イチに含まれてしまうんです。

そのイチからは、裂けた枝毛の片方ですら、外に追いやることはできません。

自分がそのイチであることを知る。

ということは、イチである。ということ。

”oneness”

自分「=」世界。

小さな自分と無限に広がる世界を分けてしまうよりも、ひっくるめることが、人にたくさんのリリースを与えます。

もう戦う相手がいないということですから。

シンプルに生きるための知識。

空想の哲学、個人的な思想や思い込みではない、教典に基づいた、隙がなく論理的なヨーガの教えです。




photo credit: Meanest Indian via photopin cc

Friday, August 2, 2013

インド式!月と農作物の関係。そして、オーガニックは誰のため?



今日は、夕方の講義の後、コインバトールの街からゲストがいらっしゃいました。

コインバトールでオーガニック農園を切り盛りしているインドのおっかさんです。

短い時間でのお話だったので大まかでしたが、興味深かったのでメモメモ。

彼女の農園では、肥料にパンチャガウヴャを使っています。

パンチャガウヴャとは、5つの牛からの恩恵。

ミルク、ヨーグルト、ギー(澄ましバター)、尿、糞。

インドでは、人びとの生活と牛は、切っても切り離せません。

牛から出るものは、何一つ無駄なものはなく、私達の生活に様々な形で役に立ちます。

穏やかで草を食べて過ごし、私達に人間にたくさんの物を与えてくれる牛達。

消費するよりも、与えるものが多い者が優れていると考えるインドでは、牛は神様のように大切にされており、ミルクが出なくなって役目を終えた牛達も、寿命を迎えるまで大切に世話をされます。

ミルクは、毎日の神様へのお供え物として使っているそう。
なので、肥料としてのメインは尿と糞を混ぜたもの。

そして海外の研究者たちとの長年の調査の結果、月と地球の距離が作物の育成に大きく影響をおよぼすことが分かったそうです。

月が地球から離れて行く時(アセンディング)種をまき、パンチャガウヴャを作物の上からスプレーするように撒く。
アセンディングの時は、植物は人で言うと息を吸っている状態。その時に種を蒔くと必ずその種は芽が出て大きく成長する。

月が地球に近づいてくる時(ディセンディング)の時は、種まきには不向き。パンチャガウヴャは、土の上に撒く。ディセンディングの時は、人で言うと息を吐いている時。とてもデリケートで、植物は枯れやすいそう。

害虫よけ、農薬の代わりになるのは、なんと、牛が食べないもの!

例えばハイビスカスや、ブーゲンビリアなどを近くに植えると効果的。

彼女のオーガニック農園は、徹底的にアヒムサ(不殺生)にこだわっています。

おっかさんによると、農園で農薬を使わなくなったのは、自分たちの健康のためではなく、虫達を殺したくないという思いから。

廻りの反対を押し切って、10年以上も前に無農薬農園への切り替えに踏み切ったそうです。

ヨーガの思想の原点であるインドならではの視点ですね。

今ではオーガニックやエコなどが流行のようにもなっていますが、人類が自分たちの快適さを基準としてエコロジー活動をしているうちは、地球がいうことを聞いてくれないのは当然ではないかなと思います。温暖化であっても氷河期であっても、この地球がその時、宇宙のバランスの中で、あるべき姿をしているに過ぎません。

インドのおっかさんが見つけた月と作物の関係、そして農園内での生態系バランスは、小さな生き物を思いやる気持ちが「調和」という形で実ったものでした。

なんでオーガニックなのか、何がエコロジーなのか、もう一度視点を変えて考えてみるよい機会となりました。


農園のウェブサイトはこちら。











Wednesday, July 24, 2013

「シンプルをデザインする。」スティーブ・ジョブスの言葉から考えるヴェーダーンタ。


Simple can be harder than complex. You have to work hard to get your thinking clean and simple. But it's worth it in the end because once you get there, you can move mountains.    

シンプルに徹することは、複雑であることよりも難しい。思考を鮮やかでシンプルなものにするために、考えぬかなければならない。また、それには十分な価値がある。達成すれば山をも動かせるだろう。


これは、アップルの創業者である、スティーブ・ジョブス氏の言葉です。

ちなみに、私はアップル製品の大ファン。

どの方向から見てもシンプルで美しい外観。手にとった時の感動や、実際にマシーンを動かした時の使いやすさ。どれをとっても魅力的で、無駄がありません。

彼は、「デザインとは飾りじゃない。どのように機能するかだ。」とも言いました。

興味深いことに、彼のシンプルに対する哲学は、ヴェーダーンタに通じるものがありました。

今回は、スティーブ・ジョブス先生の言葉をお借りして、人生をシンプルにデザインしてみましょう。


シンプルに徹することは、複雑であることよりも難しい。

どうしても私たちの頭の中は複雑になりやすいもの。人間関係や、自分の思考回路、たくさんの不要なものに囲まれていては大切なことを見落としがちです。

私たちの五感は常に外に向いています。目は色と形を運んできます。耳は音を拾います。五感の仕事は外の情報を集めることです。そして外には無限の世界が広がっています。あれも、これも。。五感に身を任せてしまうのは簡単ですが、情報でパンクしてしまうでしょう。


思考を鮮やかでシンプルなものにするために、考えぬかなければいけない。

要らないものを見極め、そぎ落とす過程においては、十分な努力が必要です。たったひとつの完成形のために、たくさんの魅力的なものに「No」と言わなければなりません。

また、シンプルさを追求するというのは、必要なことまで切り捨ててしまうことではありません。

そして、鮮やかであるということは、人生におけるどんな小さな部分にも、自分自身が宿るということなのです。


また、それには十分な価値がある。


それこそが価値のあるものです。


達成すれば山をも動かせるだろう。

いらないものをそぎ落とせば、必要な物は自然と浮かび上がってきます。

まるで山が地面から突き出てくるように。

そうなったらもうあなたは、そびえ立つヒマラヤの“山頂 ”のようなもの。自ら自分の存在を知らせるわけでもないのに、誰の目にもとまり、人を導く指標となるでしょう。



ヴェーダーンタの、“oneness” はシンプルライフのための教えです。
アップル製品のように無駄がなく、快適です。

あなたは自分の人生をデザインするとき、ごちゃごちゃと要らないもので飾り立てていませんか?

ヨーギたるもの、シンプルに潔く生きたいものですね。


Monday, July 22, 2013

今日はグルの日。グル プールニマー デー


今日はグルの日。

インドには、父の日、母の日、こどもの日などのほかに、「グルの日」があります。

インドの暦でアシャッド月(通常7月〜8月)の間に起こるプールニマー(満月)の日を、グル プールニマー − गुरु पूर्णिमा と言います。

グルとは「先生」「師」のこと。

動詞の原形 グ √गुह् が示すのは、暗闇、無知。 ル - रु が示すのは、無知を取り除く人。

グルとは、生徒たちの無知を取り払う人のこと。

光だけが暗闇を取り払う事ができるように、無知を照らすのは知識のみ。

生徒が理解できるようにその知識を扱い、伝えていくのがグルの仕事です。

知識とは、不思議なパワーでもなく、神秘的な現象でもない、1+1=2 のように明確で、時が変わっても、誰にとっても変わらないもです。そしてグルは100%のコミュニケーションを通して生徒に伝えて行きます。100%のコミュニケーションとは、教える側のグルと、その知識を受取る生徒の理解にずれがないということ。

もちろん、グルにもそのグルがいます。グルからグルへ。そうしてヴェーダの知識が、途切れることのない川の流れのように続いて来ました。

私達が、生徒として、その流れの一部にいることを祝い、グルと、そのグル、そしてそのグル、とすべてのグルたちへの感謝を表すのがグル プールニマーの日。

また、この日は、こよみの上では雨季の始まりの日でもあります。

インドでは、出家された方のことをサニヤーシと言います。お金、家族、家なども持たない彼らは、インド中を歩いて巡ります。ビクシャと言われる施しものと、寝るための場所を得るために、各家庭を転々としていきます。サニヤーシは、その土地や人や、美味しいビクシャに執着を持たないために、通常一箇所に数日しか滞在しないそうです。

しかし、例外的に、この雨季の始まりであるアシャッド月の満月の日から2ヶ月間は、どこか一つの村の家庭に滞在する慣習があります。インドの雨季は激しく、移動が困難なのがひとつの理由ですが、もう一つ、重要な意味があります。

それは、雨季の間に顔をだす、たくさんの虫達を踏んでしまう可能性が高くなるから。サニヤーシ達がこの時期の移動を避けるのには、彼らがアヒムサ(不殺生)の精神に何よりも価値を置くためなのです。

村人たちは彼らを、どうぞ滞在してください、と暖かく受け入れ、その2ヶ月の間はサニヤーシも村人たちに教えを説きます。2ヶ月コースの始まりです!


Happy guru purnima day!

世界中の皆に、グルの祝福がありますように。





photo credit: John & Mel Kots via photopin cc

Saturday, July 20, 2013

インド式!「人に迷惑をかけて生きていく」ということ。★★★★★



「人に迷惑をかけないようにしましょう。」

私たち日本人は、そのようにして育てられてきました。


一体、迷惑をかけるとはなんぞや。

車が通る所に、自転車を置いたり、図書館の本をいつまでも返さないのはもちろん迷惑。

ここ日本では「私は道端にゴミを捨てません!」などというのは、宣言することでも、素晴らしいことでも何でもない、迷惑以前の常識の問題。

日本人て本当に周りの環境や人に気を使える、素晴らしい人達だな。と、ゴミだらけのインドにいる私は思うのです。

ここで言う「人に迷惑をかけないようにしましょう。」の「迷惑」とは、社会の調和を保つための共通の認識の事。

しかし・・・

「迷惑」を自分の問題にまで延長していませんか?



私がオーストラリアでライフセービングのトレーニングをしていた時、トレーナーがこんなことを言っていました。


「日本人は自分が危険な状態にあるのに、遠慮してギリギリまで助けを求めない。俺たちは助けるために待機しているのに!自分で何とかしようとしないで、危ないなと思ったらすぐに助けを呼ぶべきだ。」


分かりますね、迷惑をかけることを恐れる日本人の心理状態。


自分が本当に困っている時、なんとなく助けを求めづらい。

そう思うことはありませんか?


海外にいるとよく話題にのぼる、日本人の自殺率の高さ。

「日本はなんで自殺者が多いの?」

って、インドにいても、よく聞かれるんです。


「日本人はあんたたちみたいに、30も過ぎてプラプラしてる人が家族にいることは恥だから、大変なのよっ!!」


と、突っ込んではみたものの、決して自慢できないこの現実。


なぜ人は思いつめるのか。

「人に迷惑をかけてはいけない。」

その真面目さが始まりなのではないのでしょうか。


「相談したいけど、こんな夜遅くに電話したら、迷惑だろうな」
「こんなことがあったけど、まず、自分一人でなんとかしてみよう。」


家族や友人など、相手が近い人であればあるほど、迷惑をかけたくない気持ちでいっぱい。

もし相談していたら、話しただけで気持ちが楽になっていたかもしれないし、根が深くならないうちに具体的な解決方法を提案してくれる人がいたかもしれない。

何より、ひとりぼっちにならない。

家族や友人だったら、それこそ心良く相談に乗ってくれるでしょう。

それはわかっているのに、相談できない!

楽しかったことやおめでたいことは簡単にシェア出来るのに、自分の悩みを打ち明けられない。

実は、私もまさにそんなタイプだったのです。

長女なせいか、甘えベタで、小さい頃から家族にあまり相談ごとができなかった私は、弱いところを相手に見せてはいけないという、変な責任感にとりつかれていました。

精神的に、誰かの助けが必要だった時、どうやって人に相談していいかわかりませんでした。

家族に、「そろそろ将来のことを考えて」とでも言われたもんなら、「ひえー!30も過ぎて会社をやめ、結婚もせずプラプラしている私なんてきっと家族の恥!心配もかけてる!呆れてきっともう誰も助けてくれないんだ!もう迷惑かけられない!私一人でなんとかしなくちゃ。」と脳内変換が起こるのです。


そうしてたどり着いたのがインドのアシュラムなのですよ。


。。。ええ、私の話はいいんです。。。


迷惑をかけてしまうことを心配するよりも。



ここインドは、「列に並ぶ」「ゴミを捨てない」「人前でゲップをしない」などの世界の人が普通にしていることが全く通じない別世界なのですが、悪いことばかりではなく、実は懐の深い一面もあるのです。

どうやら彼らは、

「あなたは人に迷惑をかけて生きて行かなければならないのだから、人のことも受け入れてあげなさい。」

と教えられ育っているようなのです。


どうです?

だいぶ気持ちが楽になりませんか?

あなたは一人ではないし、あなたは誰も一人にはさせない。


日本人の「人に迷惑をかけてはいけない」という周りへの配慮は素晴らしいこと。
でも、実は、人に頼らなければならない人対して厳しい社会でもあるのです。

私は迷惑かけないから、あなたも迷惑かけないで。

小さなことでも人に頼ることがとても悪いことのように思えてしまいます。1回はいいけど、2回目だしな。。とか。

とても孤独になりやすいです。


その点インド人は、、、

混乱して夜中に電話をかけてくる。帰ってくると誰か(もちろんインド人)が部屋入った形跡がある。お前のものは俺のもの。お前の時間は俺の時間。

日本人なら家族にも遠慮して出来ないようなことを、彼らには他人にも平気で出来るのです。

でも、実際されてみると、大して迷惑なことでもない。自分のプライバシーへのこだわりを少し減らせばいいだけのこと。

そして相手を受け入れる器さえあれば、相手もいつでも受け入れてくれる。

相手がズカズカと踏み込んできるというのは、逆に言うと、相手にもズカズカ入っていける。つまり相談しやすい雰囲気でもあります。

もっと私の時間を使ってもいいよ。もっと私のこと使ってもいいよ。

迷惑をかけないことよりも、相手を迷惑だと思わないで受け入れる環境。


私たちは、私たちの悩みにまで”迷惑”という性質を上乗せしがちです。



抱えてる問題は問題として適切に処理しなければならない。
自分で解決できないときは誰かに相談にする事は迷惑ではない。

でもその問題に、「迷惑をかける」という別の問題を足して、抱え込んでしまう。

そして、「こんなことで人に頼るべきでない。」「私には頼る人がいない」と、どんどん孤独になっていく。

人は一人では生きていけない。

分かりきったことなのに、プライバシーが重視されている今の時代には人に頼ることはちょっとした勇気が必要。

でも逆に、「私はいつでも助けになれますよ。」

そういうメッセージを周りに送り続けることで、お互いが手を差し伸べ合いやすい空気を生み出すことが出来るのでしょう。


この際、インド人を見習ってしまいましょう。

迷惑をかけて生きていく事。。





photo credit: joiseyshowaa via photopin cc

Sunday, July 7, 2013

誕生日を迎えて思ったこと。

この度、誕生日を迎えてまたひとつ年を取りました。

ここインドでは日本と違い、お誕生日ガール/ボーイが皆に幸せをおすそわけします。

去年は私もインドの習慣にならい、インドでも手に入る日本のお菓子、ロッテのチョコパイなどを皆に配ったものです。

このアシュラムに来て3年目。

今年は誰にも誕生日を知らせずに静かに過ごそうと決めておりました。

ところがいつものように朝クラスに向かうと、机の上に一枚のカードとチョコレートが。

それはなんと私の宿敵(!)M君からのものだったのです。

私の後ろに座るM君。彼と仲良くなるにつれて彼は私をからかうようになってきました。

最初は笑っていたのですが、そのからかいは、質、量ともにエスカレート。

彼の子供のようなジョークで、私は子供のようにグサグサと傷ついていたのです。

そのうち私は我慢ができなくなって、「私のこと嫌いなのはわかるけど、それを出さなくてもいいんじゃない?」と彼に言いました。

彼は、「嫌いじゃないよ!傷ついていたのなら本当にごめんね。」と私に謝りました。

その時は笑顔で仲直りしましたが、 それからもなんとなく私は警戒心丸出しで、近くに座っていながらあまり話すこともしませんでした。
















そんな彼からのカードはサンスクリットの文法のテクニックがベースになったおもしろカード。

私がハッピーであるようにとのメッセージが込められていました。

覚えていてくれたんだ。ありがとう。と彼に言いました。

なんかその時私はちょっと照れくさかった。

この歳になって小さなことで傷ついて、ムキになって壁作って。

バガヴァッド・ギーター13章のなかで、クリシュナは、“私が教える知識を自分のものに出来る人はこんな人” というのをいくつかあげています。つまり聖人、賢人とはどんな人か。ということ。

その中の一つ、クシャーンティ − क्षान्ति

クシャーンティとは、忍耐強さ、人間関係や環境における調和。相手がどんな態度であろうとも、いつも笑顔で明るく相手を受け入れて、歩み寄ることができる、そんな人の事。

歩み寄りの必要がない人間関係などありません。

いつも相手が私が望むようにしてくれるわけではありません。

この人難しい、、と感じる相手にはどうしたらいいの?

その時は、相手にあえてとびっきりの笑顔を送る。愛情いっぱいのカードとチョコレートを送る。自分の苦い心とはあえて反対の態度をとる。

その行動が良い未来につながると信じて。

その自分のネガティブな思いを振り払って行う前向きな態度のことをサンスクリットでプラティパクシャバーヴァナ − प्रतिपक्षभावन と言います。

これはクシャーンティな自分になるための良い練習!

小鳥を大きな背中の上で休ませてあげる象のように、大きな気持で受け入れてあげよう。

彼にとって私は、かなり手強い相手だったに違いません。

頑なな私の態度にもかかわらず歩み寄ってくれたM君。

相手を自分の思うとおりに力ずくで変えようとするのじゃなく、ハッピーに気づかせることができる。

相手を成長させることもできる。

温かい気持ちになったお誕生日でした。


バガヴァッド・ギーターの教え 6 - バガヴァッド・ギーターが私達に与えてくれるもの。


ギーターの教えは私に何を与えてくれるの?


バガヴァッド・ギーターは、私達に空腹を満たす食べ物を与えてくれるわけでも、寒さから身を守るための温かいセーターを与えてくれるわけでもありません。

空腹は食べれば収まるし、寒さも季節が変われば乗り越えられる。イライラだって寝れば収まったりもする。目に見える問題は常に来ては去っていくものです。そしてどんなに立派な人にも、神話に出てくる神様にだって乗り越えて行かなければならない状況や心境の変化はあるものです。なんの問題もなくて挑戦することもない、そんな人生は短調で物足りないのも事実。

サッカーを見て、なんで皆で一個のボールを取り合っているの!? と思う人はいないでしょう。


私達の人生もゲームのように楽しみ、チャレンジしていくもの。そうして初めて生きている実感が湧くものです。たまには乗り越えられないほどの壁にぶつかるかもしれません。でもそれは与えられたもので、この苦労は永遠に続くものではないと知っていれば、きっと頑張れるでしょう。

表面的な問題は、その根っことなる問題さえクリアすればなんてことないもの。根っこ問題を見つけられるまでは、とっかえひっかえを繰り返すだけでなく更に新しい問題まで創りだしてしまったりします。

私達に立ち向かわなければならない壁があるのも、人類がこの世に存在してからずっと変わらないもの。

バガヴァッド・ギーターの中でアルジュナも私達と同じように悩み、迷うのです。アルジュナはこの世の平和を守る勇敢な戦士で、マハーバーラタの戦いでも大活躍のヒーローです。それまでもたくさんの戦いで勝利を収め、頭脳も明晰。神様だって見方に付いている。それにもかかわらず押しつぶされ、葛藤し、悲しみにくれるのです。スーパーマンだって、ウルトラマンだって、ウルヴァリンだって、ヒーローと苦悩は切っても切り離せない。それでも逃げ出さずに私たちのために戦うヒーローたち。だから私達も共感し、応援したくなっちゃうんですよね。

バガヴァッド・ギーターでは、神様であり戦場で支えてくれるパートナーであるクリシュナは、アルジュナが葛藤を乗り越えるための知識を教えてくれるのです。アルジュナは戦場から逃げることなしに、自分の役目を果たすことができるのでしょうか?

みんなのバガヴァッド・ギーター


Mahabharata War First day
Mahabharata War First day / william2021

バガヴァッド・ギーターはアルジュナ一人のものでもなく、インド人だけのものでもなく、ヒンドゥ教徒のためのものでもありません。

ギーターは、人生の中で壁にぶち当たったことのある人、今の生活に疑問がある人、私は誰なのか考えちゃう人、とりあえずは幸せかなーと思っている人。みんなのための教えです。

これから続くバガヴァッド・ギーターの章では、人びとの根本的な問題に対しての解決を約束してくれます。





Saturday, July 6, 2013

バガヴァッド・ギーターの教え 5 -私が欲しいと思っている「あれ」は本当に私を幸せにしてくれるのか?

私が「これが欲しい!」と思うとき。


本当に欲しいのは、その“モノ”自体ではありません。

「これがほしい!これがあったらきっと。。」と、手に入れたあとの自分を想像しているでしょう。その想像のなかの自分は、今の自分+α。その“+αな自分”が欲しいのです。それは今の私に満足していないからではありませんか?

今欲しい物を頭に浮かべてみてください。

女性だったら最近話題のキッチン用品かもしれないし、アジアンリゾートへの旅行かも知れない。恋人かもしれないし、仕事場での人間関係からの自由かもしれない。

男性だったら会社での地位かもしれないし、車かもしれない。
ぽっちゃりしてきたお腹を見て、健康が気になるかもしれない。

私たちの欲望は星の数ほどあるけれど、それは単なる表面的な違いだけ。よくよくみてみると、たった二つのパターンに分けることができます。

  • 幸せな気分になるために今の私に足りないものを補いたい。
  • これがあるから私は不満!望まないものを自分から切り離したい。

サンスクリットではそれぞれ、プラヴルッティ-प्रवृत्ति、ニヴルッティ-निवृत्तिと言います。これらは私達が快適さを得るために日々行なっていること。

欲望は形を変えて私の中に次々と浮かび上がってきます。

その時欲しかったものでも、しばらくすると欲しくなくなったり、もういらない!とさえ思うかもしれません。

飛行機に乗れば待ち遠しいご飯の時間、自分の番がなかなか来なくて何度も振り返ります。でもお腹がいっぱいになった途端、この狭い空間で目の前のスペースを占領する散らかった空のプレートを一刻も早く下げてほしいと思うでしょう。あんなに待ち遠しかった恋人からの電話も、毎晩深夜にかかってきたら迷惑でしかないでしょう。

欲しくて追い求めてたのに今度はそれから自由になりたい。私たちは一体何を求めてるのか、もはや分かりませんね。

マッサージチェアを12回払いで買ったって、本当のリラックスはありません。


インドには出家される方がたくさんいらっしゃいます。彼らの中には、腰布一枚で木の下に座り、空を眺めているような人もいます。とても穏やかで、リラックスしています。特に何かほしいものがあるわけでもないし、彼の少しの持ち物さえも人に分け与える心を持っています。お腹をすかせた犬が通りかかったら、自分のご飯をわけてあげます。彼らを見て思います。あ、何も持っていなくても幸せなんだ。。自分を守ってくれる社会や家族、家などがなくても。

彼はすでに満たされているので、何かを手に入れる必要がありません。その反対に現代社会に生きる私たちはたくさんのものを持ち、ガッチリと守りを固めているにも関わらず、何か不安で、まるで物乞いのようにあれもこれもと求め続けています。一体どちらが幸せなのでしょう?

バスを利用していたときは、予定通りに来ないバスにイライラしたり、乗り遅れたり。。タッチの差で乗れなかったバスを見送りながら、車があったら“もうちょっと”便利だろうな。と車を買えば、駐車場がないと探しまわり、メンテナンスやローンに追われたり。

快適になろうとして手に入れたものに今度は縛られてしまう生活。私たちの暮らしは完全に満たされることがないまま、永遠にプラヴルッティ、ニヴルッティを繰り返して行くのです。

“満たされている”とは、何も足したり引いたりする必要がないということ。


それがどこにいてもどんな状況でも、自分の家にいるようにリラックスするために知らなければならないこと。今の自分を“何か欠けている存在”だと思ってしまっていたら、自分以外の者に頼るしかなくなってしまうからです。どうやって乗り越えればいいのかを知ることがないと、自分から逃げてしまうしかなくなってしまいます。悲しみを紛らわすためにお酒を飲みすぎたり、現実に向き合うことが出来ずにアニメの世界に没頭してしまったり。一時しのぎにはなっても、逃げることが解決になることは決してありません。

私はこれを“持ってる”とか“持ってない”とかじゃなくて。


人生は常に足りない部分を満たさなければという緊張感にさらされています。

「あの人はお金もあるし綺麗な家もある。素敵な家族もあって幸せそうだ。」と思うかもしれません。なぜならあなたは、その人の持っているものにある程度の価値を見出しているからです。でもそれは外から見た話で、実際に持っているものだけで幸せを計ることはできません。あなたと彼らの違いはたった一つ、“持っている”か“持っていない”かだけ。

ふかふかのベッドが、ある人にとっては深い眠りをもたらすのに対し、ある人にとっては腰痛の原因になってしまうように、“持っている”ことが誰にとっても快適さをもたらすものではありません。

毎日の生活のなかで、幸せを求めていく。より幸せになるために変わりたいと思う。それが人びとの共通の願いです。

その願いを叶えるのが、私たちの人生の目的。誰一人として無関心でいることはできません。特に、人生の中で大きな出来事があった時、人は急に我に返ることがあります。

例えば何か大切なものを失った時。それを取り返すことができるなら、この世のすべてを失ってもいいとさえ思います。

「私が手に入れたいと思っていたものたち、手放したくないと思っていたものたちは、本当に欲しいものじゃない。私を守ってくれると信じていたものは、なんの助けにもならない。なんて頼りないものだったんだろう。」

そして私を取り囲んでいるものたちの価値が見いだせなくなった時、「心の底からくつろぎたい。どうしたらいいの?」と、人生の本当の目的を探し始めます。

その時から人生は目的に満ちたものとなるのです。



Friday, July 5, 2013

新しいページを作りました。- ヴェーダーンタとは -



■  ヴェーダーンタとは


ヴェーダーンタって何?
イントロダクションとして1ページにまとめました。

メニューバーの “ヴェーダーンタとは” を選択してください。






Wednesday, February 6, 2013

旅の前日

屋上からの景色
明日から約1ヶ月の間聖地リシケシで授業があります。久々の旅で落ちつかなく、思わず部屋から飛び出たらピンク色の空が広がっていました。今日は眠れるかなぁ。ガンガーに皆の幸せを願ってきます。


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