Wednesday, July 24, 2013

「シンプルをデザインする。」スティーブ・ジョブスの言葉から考えるヴェーダーンタ。


Simple can be harder than complex. You have to work hard to get your thinking clean and simple. But it's worth it in the end because once you get there, you can move mountains.    

シンプルに徹することは、複雑であることよりも難しい。思考を鮮やかでシンプルなものにするために、考えぬかなければならない。また、それには十分な価値がある。達成すれば山をも動かせるだろう。


これは、アップルの創業者である、スティーブ・ジョブス氏の言葉です。

ちなみに、私はアップル製品の大ファン。

どの方向から見てもシンプルで美しい外観。手にとった時の感動や、実際にマシーンを動かした時の使いやすさ。どれをとっても魅力的で、無駄がありません。

彼は、「デザインとは飾りじゃない。どのように機能するかだ。」とも言いました。

興味深いことに、彼のシンプルに対する哲学は、ヴェーダーンタに通じるものがありました。

今回は、スティーブ・ジョブス先生の言葉をお借りして、人生をシンプルにデザインしてみましょう。


シンプルに徹することは、複雑であることよりも難しい。

どうしても私たちの頭の中は複雑になりやすいもの。人間関係や、自分の思考回路、たくさんの不要なものに囲まれていては大切なことを見落としがちです。

私たちの五感は常に外に向いています。目は色と形を運んできます。耳は音を拾います。五感の仕事は外の情報を集めることです。そして外には無限の世界が広がっています。あれも、これも。。五感に身を任せてしまうのは簡単ですが、情報でパンクしてしまうでしょう。


思考を鮮やかでシンプルなものにするために、考えぬかなければいけない。

要らないものを見極め、そぎ落とす過程においては、十分な努力が必要です。たったひとつの完成形のために、たくさんの魅力的なものに「No」と言わなければなりません。

また、シンプルさを追求するというのは、必要なことまで切り捨ててしまうことではありません。

そして、鮮やかであるということは、人生におけるどんな小さな部分にも、自分自身が宿るということなのです。


また、それには十分な価値がある。


それこそが価値のあるものです。


達成すれば山をも動かせるだろう。

いらないものをそぎ落とせば、必要な物は自然と浮かび上がってきます。

まるで山が地面から突き出てくるように。

そうなったらもうあなたは、そびえ立つヒマラヤの“山頂 ”のようなもの。自ら自分の存在を知らせるわけでもないのに、誰の目にもとまり、人を導く指標となるでしょう。



ヴェーダーンタの、“oneness” はシンプルライフのための教えです。
アップル製品のように無駄がなく、快適です。

あなたは自分の人生をデザインするとき、ごちゃごちゃと要らないもので飾り立てていませんか?

ヨーギたるもの、シンプルに潔く生きたいものですね。


Monday, July 22, 2013

今日はグルの日。グル プールニマー デー


今日はグルの日。

インドには、父の日、母の日、こどもの日などのほかに、「グルの日」があります。

インドの暦でアシャッド月(通常7月〜8月)の間に起こるプールニマー(満月)の日を、グル プールニマー − गुरु पूर्णिमा と言います。

グルとは「先生」「師」のこと。

動詞の原形 グ √गुह् が示すのは、暗闇、無知。 ル - रु が示すのは、無知を取り除く人。

グルとは、生徒たちの無知を取り払う人のこと。

光だけが暗闇を取り払う事ができるように、無知を照らすのは知識のみ。

生徒が理解できるようにその知識を扱い、伝えていくのがグルの仕事です。

知識とは、不思議なパワーでもなく、神秘的な現象でもない、1+1=2 のように明確で、時が変わっても、誰にとっても変わらないもです。そしてグルは100%のコミュニケーションを通して生徒に伝えて行きます。100%のコミュニケーションとは、教える側のグルと、その知識を受取る生徒の理解にずれがないということ。

もちろん、グルにもそのグルがいます。グルからグルへ。そうしてヴェーダの知識が、途切れることのない川の流れのように続いて来ました。

私達が、生徒として、その流れの一部にいることを祝い、グルと、そのグル、そしてそのグル、とすべてのグルたちへの感謝を表すのがグル プールニマーの日。

また、この日は、こよみの上では雨季の始まりの日でもあります。

インドでは、出家された方のことをサニヤーシと言います。お金、家族、家なども持たない彼らは、インド中を歩いて巡ります。ビクシャと言われる施しものと、寝るための場所を得るために、各家庭を転々としていきます。サニヤーシは、その土地や人や、美味しいビクシャに執着を持たないために、通常一箇所に数日しか滞在しないそうです。

しかし、例外的に、この雨季の始まりであるアシャッド月の満月の日から2ヶ月間は、どこか一つの村の家庭に滞在する慣習があります。インドの雨季は激しく、移動が困難なのがひとつの理由ですが、もう一つ、重要な意味があります。

それは、雨季の間に顔をだす、たくさんの虫達を踏んでしまう可能性が高くなるから。サニヤーシ達がこの時期の移動を避けるのには、彼らがアヒムサ(不殺生)の精神に何よりも価値を置くためなのです。

村人たちは彼らを、どうぞ滞在してください、と暖かく受け入れ、その2ヶ月の間はサニヤーシも村人たちに教えを説きます。2ヶ月コースの始まりです!


Happy guru purnima day!

世界中の皆に、グルの祝福がありますように。





photo credit: John & Mel Kots via photopin cc

Saturday, July 20, 2013

インド式!「人に迷惑をかけて生きていく」ということ。★★★★★



「人に迷惑をかけないようにしましょう。」

私たち日本人は、そのようにして育てられてきました。


一体、迷惑をかけるとはなんぞや。

車が通る所に、自転車を置いたり、図書館の本をいつまでも返さないのはもちろん迷惑。

ここ日本では「私は道端にゴミを捨てません!」などというのは、宣言することでも、素晴らしいことでも何でもない、迷惑以前の常識の問題。

日本人て本当に周りの環境や人に気を使える、素晴らしい人達だな。と、ゴミだらけのインドにいる私は思うのです。

ここで言う「人に迷惑をかけないようにしましょう。」の「迷惑」とは、社会の調和を保つための共通の認識の事。

しかし・・・

「迷惑」を自分の問題にまで延長していませんか?



私がオーストラリアでライフセービングのトレーニングをしていた時、トレーナーがこんなことを言っていました。


「日本人は自分が危険な状態にあるのに、遠慮してギリギリまで助けを求めない。俺たちは助けるために待機しているのに!自分で何とかしようとしないで、危ないなと思ったらすぐに助けを呼ぶべきだ。」


分かりますね、迷惑をかけることを恐れる日本人の心理状態。


自分が本当に困っている時、なんとなく助けを求めづらい。

そう思うことはありませんか?


海外にいるとよく話題にのぼる、日本人の自殺率の高さ。

「日本はなんで自殺者が多いの?」

って、インドにいても、よく聞かれるんです。


「日本人はあんたたちみたいに、30も過ぎてプラプラしてる人が家族にいることは恥だから、大変なのよっ!!」


と、突っ込んではみたものの、決して自慢できないこの現実。


なぜ人は思いつめるのか。

「人に迷惑をかけてはいけない。」

その真面目さが始まりなのではないのでしょうか。


「相談したいけど、こんな夜遅くに電話したら、迷惑だろうな」
「こんなことがあったけど、まず、自分一人でなんとかしてみよう。」


家族や友人など、相手が近い人であればあるほど、迷惑をかけたくない気持ちでいっぱい。

もし相談していたら、話しただけで気持ちが楽になっていたかもしれないし、根が深くならないうちに具体的な解決方法を提案してくれる人がいたかもしれない。

何より、ひとりぼっちにならない。

家族や友人だったら、それこそ心良く相談に乗ってくれるでしょう。

それはわかっているのに、相談できない!

楽しかったことやおめでたいことは簡単にシェア出来るのに、自分の悩みを打ち明けられない。

実は、私もまさにそんなタイプだったのです。

長女なせいか、甘えベタで、小さい頃から家族にあまり相談ごとができなかった私は、弱いところを相手に見せてはいけないという、変な責任感にとりつかれていました。

精神的に、誰かの助けが必要だった時、どうやって人に相談していいかわかりませんでした。

家族に、「そろそろ将来のことを考えて」とでも言われたもんなら、「ひえー!30も過ぎて会社をやめ、結婚もせずプラプラしている私なんてきっと家族の恥!心配もかけてる!呆れてきっともう誰も助けてくれないんだ!もう迷惑かけられない!私一人でなんとかしなくちゃ。」と脳内変換が起こるのです。


そうしてたどり着いたのがインドのアシュラムなのですよ。


。。。ええ、私の話はいいんです。。。


迷惑をかけてしまうことを心配するよりも。



ここインドは、「列に並ぶ」「ゴミを捨てない」「人前でゲップをしない」などの世界の人が普通にしていることが全く通じない別世界なのですが、悪いことばかりではなく、実は懐の深い一面もあるのです。

どうやら彼らは、

「あなたは人に迷惑をかけて生きて行かなければならないのだから、人のことも受け入れてあげなさい。」

と教えられ育っているようなのです。


どうです?

だいぶ気持ちが楽になりませんか?

あなたは一人ではないし、あなたは誰も一人にはさせない。


日本人の「人に迷惑をかけてはいけない」という周りへの配慮は素晴らしいこと。
でも、実は、人に頼らなければならない人対して厳しい社会でもあるのです。

私は迷惑かけないから、あなたも迷惑かけないで。

小さなことでも人に頼ることがとても悪いことのように思えてしまいます。1回はいいけど、2回目だしな。。とか。

とても孤独になりやすいです。


その点インド人は、、、

混乱して夜中に電話をかけてくる。帰ってくると誰か(もちろんインド人)が部屋入った形跡がある。お前のものは俺のもの。お前の時間は俺の時間。

日本人なら家族にも遠慮して出来ないようなことを、彼らには他人にも平気で出来るのです。

でも、実際されてみると、大して迷惑なことでもない。自分のプライバシーへのこだわりを少し減らせばいいだけのこと。

そして相手を受け入れる器さえあれば、相手もいつでも受け入れてくれる。

相手がズカズカと踏み込んできるというのは、逆に言うと、相手にもズカズカ入っていける。つまり相談しやすい雰囲気でもあります。

もっと私の時間を使ってもいいよ。もっと私のこと使ってもいいよ。

迷惑をかけないことよりも、相手を迷惑だと思わないで受け入れる環境。


私たちは、私たちの悩みにまで”迷惑”という性質を上乗せしがちです。



抱えてる問題は問題として適切に処理しなければならない。
自分で解決できないときは誰かに相談にする事は迷惑ではない。

でもその問題に、「迷惑をかける」という別の問題を足して、抱え込んでしまう。

そして、「こんなことで人に頼るべきでない。」「私には頼る人がいない」と、どんどん孤独になっていく。

人は一人では生きていけない。

分かりきったことなのに、プライバシーが重視されている今の時代には人に頼ることはちょっとした勇気が必要。

でも逆に、「私はいつでも助けになれますよ。」

そういうメッセージを周りに送り続けることで、お互いが手を差し伸べ合いやすい空気を生み出すことが出来るのでしょう。


この際、インド人を見習ってしまいましょう。

迷惑をかけて生きていく事。。





photo credit: joiseyshowaa via photopin cc

Sunday, July 7, 2013

誕生日を迎えて思ったこと。

この度、誕生日を迎えてまたひとつ年を取りました。

ここインドでは日本と違い、お誕生日ガール/ボーイが皆に幸せをおすそわけします。

去年は私もインドの習慣にならい、インドでも手に入る日本のお菓子、ロッテのチョコパイなどを皆に配ったものです。

このアシュラムに来て3年目。

今年は誰にも誕生日を知らせずに静かに過ごそうと決めておりました。

ところがいつものように朝クラスに向かうと、机の上に一枚のカードとチョコレートが。

それはなんと私の宿敵(!)M君からのものだったのです。

私の後ろに座るM君。彼と仲良くなるにつれて彼は私をからかうようになってきました。

最初は笑っていたのですが、そのからかいは、質、量ともにエスカレート。

彼の子供のようなジョークで、私は子供のようにグサグサと傷ついていたのです。

そのうち私は我慢ができなくなって、「私のこと嫌いなのはわかるけど、それを出さなくてもいいんじゃない?」と彼に言いました。

彼は、「嫌いじゃないよ!傷ついていたのなら本当にごめんね。」と私に謝りました。

その時は笑顔で仲直りしましたが、 それからもなんとなく私は警戒心丸出しで、近くに座っていながらあまり話すこともしませんでした。
















そんな彼からのカードはサンスクリットの文法のテクニックがベースになったおもしろカード。

私がハッピーであるようにとのメッセージが込められていました。

覚えていてくれたんだ。ありがとう。と彼に言いました。

なんかその時私はちょっと照れくさかった。

この歳になって小さなことで傷ついて、ムキになって壁作って。

バガヴァッド・ギーター13章のなかで、クリシュナは、“私が教える知識を自分のものに出来る人はこんな人” というのをいくつかあげています。つまり聖人、賢人とはどんな人か。ということ。

その中の一つ、クシャーンティ − क्षान्ति

クシャーンティとは、忍耐強さ、人間関係や環境における調和。相手がどんな態度であろうとも、いつも笑顔で明るく相手を受け入れて、歩み寄ることができる、そんな人の事。

歩み寄りの必要がない人間関係などありません。

いつも相手が私が望むようにしてくれるわけではありません。

この人難しい、、と感じる相手にはどうしたらいいの?

その時は、相手にあえてとびっきりの笑顔を送る。愛情いっぱいのカードとチョコレートを送る。自分の苦い心とはあえて反対の態度をとる。

その行動が良い未来につながると信じて。

その自分のネガティブな思いを振り払って行う前向きな態度のことをサンスクリットでプラティパクシャバーヴァナ − प्रतिपक्षभावन と言います。

これはクシャーンティな自分になるための良い練習!

小鳥を大きな背中の上で休ませてあげる象のように、大きな気持で受け入れてあげよう。

彼にとって私は、かなり手強い相手だったに違いません。

頑なな私の態度にもかかわらず歩み寄ってくれたM君。

相手を自分の思うとおりに力ずくで変えようとするのじゃなく、ハッピーに気づかせることができる。

相手を成長させることもできる。

温かい気持ちになったお誕生日でした。


バガヴァッド・ギーターの教え 6 - バガヴァッド・ギーターが私達に与えてくれるもの。


ギーターの教えは私に何を与えてくれるの?


バガヴァッド・ギーターは、私達に空腹を満たす食べ物を与えてくれるわけでも、寒さから身を守るための温かいセーターを与えてくれるわけでもありません。

空腹は食べれば収まるし、寒さも季節が変われば乗り越えられる。イライラだって寝れば収まったりもする。目に見える問題は常に来ては去っていくものです。そしてどんなに立派な人にも、神話に出てくる神様にだって乗り越えて行かなければならない状況や心境の変化はあるものです。なんの問題もなくて挑戦することもない、そんな人生は短調で物足りないのも事実。

サッカーを見て、なんで皆で一個のボールを取り合っているの!? と思う人はいないでしょう。


私達の人生もゲームのように楽しみ、チャレンジしていくもの。そうして初めて生きている実感が湧くものです。たまには乗り越えられないほどの壁にぶつかるかもしれません。でもそれは与えられたもので、この苦労は永遠に続くものではないと知っていれば、きっと頑張れるでしょう。

表面的な問題は、その根っことなる問題さえクリアすればなんてことないもの。根っこ問題を見つけられるまでは、とっかえひっかえを繰り返すだけでなく更に新しい問題まで創りだしてしまったりします。

私達に立ち向かわなければならない壁があるのも、人類がこの世に存在してからずっと変わらないもの。

バガヴァッド・ギーターの中でアルジュナも私達と同じように悩み、迷うのです。アルジュナはこの世の平和を守る勇敢な戦士で、マハーバーラタの戦いでも大活躍のヒーローです。それまでもたくさんの戦いで勝利を収め、頭脳も明晰。神様だって見方に付いている。それにもかかわらず押しつぶされ、葛藤し、悲しみにくれるのです。スーパーマンだって、ウルトラマンだって、ウルヴァリンだって、ヒーローと苦悩は切っても切り離せない。それでも逃げ出さずに私たちのために戦うヒーローたち。だから私達も共感し、応援したくなっちゃうんですよね。

バガヴァッド・ギーターでは、神様であり戦場で支えてくれるパートナーであるクリシュナは、アルジュナが葛藤を乗り越えるための知識を教えてくれるのです。アルジュナは戦場から逃げることなしに、自分の役目を果たすことができるのでしょうか?

みんなのバガヴァッド・ギーター


Mahabharata War First day
Mahabharata War First day / william2021

バガヴァッド・ギーターはアルジュナ一人のものでもなく、インド人だけのものでもなく、ヒンドゥ教徒のためのものでもありません。

ギーターは、人生の中で壁にぶち当たったことのある人、今の生活に疑問がある人、私は誰なのか考えちゃう人、とりあえずは幸せかなーと思っている人。みんなのための教えです。

これから続くバガヴァッド・ギーターの章では、人びとの根本的な問題に対しての解決を約束してくれます。





Saturday, July 6, 2013

バガヴァッド・ギーターの教え 5 -私が欲しいと思っている「あれ」は本当に私を幸せにしてくれるのか?

私が「これが欲しい!」と思うとき。


本当に欲しいのは、その“モノ”自体ではありません。

「これがほしい!これがあったらきっと。。」と、手に入れたあとの自分を想像しているでしょう。その想像のなかの自分は、今の自分+α。その“+αな自分”が欲しいのです。それは今の私に満足していないからではありませんか?

今欲しい物を頭に浮かべてみてください。

女性だったら最近話題のキッチン用品かもしれないし、アジアンリゾートへの旅行かも知れない。恋人かもしれないし、仕事場での人間関係からの自由かもしれない。

男性だったら会社での地位かもしれないし、車かもしれない。
ぽっちゃりしてきたお腹を見て、健康が気になるかもしれない。

私たちの欲望は星の数ほどあるけれど、それは単なる表面的な違いだけ。よくよくみてみると、たった二つのパターンに分けることができます。

  • 幸せな気分になるために今の私に足りないものを補いたい。
  • これがあるから私は不満!望まないものを自分から切り離したい。

サンスクリットではそれぞれ、プラヴルッティ-प्रवृत्ति、ニヴルッティ-निवृत्तिと言います。これらは私達が快適さを得るために日々行なっていること。

欲望は形を変えて私の中に次々と浮かび上がってきます。

その時欲しかったものでも、しばらくすると欲しくなくなったり、もういらない!とさえ思うかもしれません。

飛行機に乗れば待ち遠しいご飯の時間、自分の番がなかなか来なくて何度も振り返ります。でもお腹がいっぱいになった途端、この狭い空間で目の前のスペースを占領する散らかった空のプレートを一刻も早く下げてほしいと思うでしょう。あんなに待ち遠しかった恋人からの電話も、毎晩深夜にかかってきたら迷惑でしかないでしょう。

欲しくて追い求めてたのに今度はそれから自由になりたい。私たちは一体何を求めてるのか、もはや分かりませんね。

マッサージチェアを12回払いで買ったって、本当のリラックスはありません。


インドには出家される方がたくさんいらっしゃいます。彼らの中には、腰布一枚で木の下に座り、空を眺めているような人もいます。とても穏やかで、リラックスしています。特に何かほしいものがあるわけでもないし、彼の少しの持ち物さえも人に分け与える心を持っています。お腹をすかせた犬が通りかかったら、自分のご飯をわけてあげます。彼らを見て思います。あ、何も持っていなくても幸せなんだ。。自分を守ってくれる社会や家族、家などがなくても。

彼はすでに満たされているので、何かを手に入れる必要がありません。その反対に現代社会に生きる私たちはたくさんのものを持ち、ガッチリと守りを固めているにも関わらず、何か不安で、まるで物乞いのようにあれもこれもと求め続けています。一体どちらが幸せなのでしょう?

バスを利用していたときは、予定通りに来ないバスにイライラしたり、乗り遅れたり。。タッチの差で乗れなかったバスを見送りながら、車があったら“もうちょっと”便利だろうな。と車を買えば、駐車場がないと探しまわり、メンテナンスやローンに追われたり。

快適になろうとして手に入れたものに今度は縛られてしまう生活。私たちの暮らしは完全に満たされることがないまま、永遠にプラヴルッティ、ニヴルッティを繰り返して行くのです。

“満たされている”とは、何も足したり引いたりする必要がないということ。


それがどこにいてもどんな状況でも、自分の家にいるようにリラックスするために知らなければならないこと。今の自分を“何か欠けている存在”だと思ってしまっていたら、自分以外の者に頼るしかなくなってしまうからです。どうやって乗り越えればいいのかを知ることがないと、自分から逃げてしまうしかなくなってしまいます。悲しみを紛らわすためにお酒を飲みすぎたり、現実に向き合うことが出来ずにアニメの世界に没頭してしまったり。一時しのぎにはなっても、逃げることが解決になることは決してありません。

私はこれを“持ってる”とか“持ってない”とかじゃなくて。


人生は常に足りない部分を満たさなければという緊張感にさらされています。

「あの人はお金もあるし綺麗な家もある。素敵な家族もあって幸せそうだ。」と思うかもしれません。なぜならあなたは、その人の持っているものにある程度の価値を見出しているからです。でもそれは外から見た話で、実際に持っているものだけで幸せを計ることはできません。あなたと彼らの違いはたった一つ、“持っている”か“持っていない”かだけ。

ふかふかのベッドが、ある人にとっては深い眠りをもたらすのに対し、ある人にとっては腰痛の原因になってしまうように、“持っている”ことが誰にとっても快適さをもたらすものではありません。

毎日の生活のなかで、幸せを求めていく。より幸せになるために変わりたいと思う。それが人びとの共通の願いです。

その願いを叶えるのが、私たちの人生の目的。誰一人として無関心でいることはできません。特に、人生の中で大きな出来事があった時、人は急に我に返ることがあります。

例えば何か大切なものを失った時。それを取り返すことができるなら、この世のすべてを失ってもいいとさえ思います。

「私が手に入れたいと思っていたものたち、手放したくないと思っていたものたちは、本当に欲しいものじゃない。私を守ってくれると信じていたものは、なんの助けにもならない。なんて頼りないものだったんだろう。」

そして私を取り囲んでいるものたちの価値が見いだせなくなった時、「心の底からくつろぎたい。どうしたらいいの?」と、人生の本当の目的を探し始めます。

その時から人生は目的に満ちたものとなるのです。



Friday, July 5, 2013

新しいページを作りました。- ヴェーダーンタとは -



■  ヴェーダーンタとは


ヴェーダーンタって何?
イントロダクションとして1ページにまとめました。

メニューバーの “ヴェーダーンタとは” を選択してください。






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