Sunday, September 22, 2013

体験で得られる「自由」を最終ゴールとしないために。「ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作」


今日は脳科学者のジル博士のビデオを紹介しつつ、「自由」を求める私達が間違った方向に行ってしまう可能性について少しお話します。


映像はこちらのリンクから!日本語の字幕もありますよ。

Jill Bolte Taylor: My stroke of insight


脳科学者のジル博士。彼女はある時脳卒中に襲われ、脳科学者なら願ってもいない「脳を内側から観察する」というチャンスを得ました。

このTEDでのプレゼンテーションで、ジル博士は、右脳の働きを自身の脳卒中の体験から語っています。

それは素晴らしい体験だったそうで、その時の状態を「ニルヴァーナ!」と何度も何度も言っていました。

ジル博士はこんなことを話しました。

***

人間の「右脳」と、「左脳」は全く別の人格を持った別々の個体で、2つをつなぐ「脳梁」によって情報交換がなされ、統一され、一つの脳としての役割を果たします。

「今」を生きる右脳君は、「今!この瞬間」がどのように見えて、どのように聞こえ、触れて、臭うのか、、五感が集めてきた全てのエネルギーが情報となり集められ、大きなキャンバスに描かれます。そこには「私」という、自分と世界を区別する境界線はありません。

「過去」と「未来」を一本の線で結びつける左脳君は、右脳君が集めてきた情報を過去の情報と結びつけて、未来を予測したりもします。左脳くんは「言葉」で考えます。左脳くんが「私」といった時から「私」が切り離され「個体」となります。過去の情報を引っ張ってきて、「帰りにトイレットペーパー買うの忘れないで」などというのは左脳君だそう。

左脳君が傷ついて機能しなくなってしまったのが、ジル博士のその時の状態です。

その時ジル博士の中で生きているのは、右脳君のみ。

ジル先生は、この右脳君のみの世界を「ラララ♪ランド」と名づけました。

過去も未来もない、自分と世界の境界線も無いたった一つのこの世界は、平和な感覚で満たされていて、「全体」で、ストレスがなくて、ただただ美しいものだったと。

最後の締めくくりで、彼女は、その時その時、自分たちはどのように脳を使うことが出来るかを選ぶ事ができると言っています。

右脳君とともにハッピーな私でいたいのか、左脳君と寄り添って理知的な私でいたいのか。

意識して、右脳君に歩み寄って、平和を見出すことが出来るのです。

***

ジル博士が言いたかったこと


今の私達の生活は忙しくて、計画通りに物事を進めていかなければならなかったり、未来の心配をしなければならなかったり、過去に引きずられてしまいがちです。つまり、左脳君が大活躍しているわけですが、あまり幸せでないのも事実です。

ジル博士は、右脳の紹介をすることで、ストレスに押しつぶされそうな現代の私達がもうすこし気楽に生きることが出来るように、「考え方の選択肢」、つまり、左脳で考えすぎるという「癖」を見直していくことができるという提案をしています。自らの経験を語ることで、人びとに生きる希望を与えたいと。その瞬間瞬間で良い方を選択する力をつけることが出来ると。

「そうだ、ラララ♪ランドに行こう。」というありがちな解釈


ジル博士は決して、「ラララ♪ランド」に平和への解決があり、皆でそこへ行きましょう。と言ってるのではありません。

彼女はヒッピーのリーダーではなく、知的な脳科学者ですので。

彼女はこの体験を「ニルヴァーナ」と呼んでいました。

この「ニルヴァーナ」、沢山の人に様々に解釈されてしまっています。

メディテーションやヨガ、スピリチュアルでサイケデリックなパワーを高めることで「ニルヴァーナ」を得られるものだと思っています。

ハッピーで、争いや苦しみのない世界、だと思っている人もいます。

ニルヴァーナが「ラララ♪ランド」だと思っていて、それを体験したいのなら、左脳を麻痺させる注射でも打てば良いわけですが、真面目な人はヨガやメディテーションなど、自分の力で「ラララ♪ランド」へ行こうと、そこを目的地として、地道な努力をするわけです。

しかし。。

本当の「ニルヴァーナ」は、体験で得られるものではありません。
体験そのものを指す言葉でもありません。

サンスクリットの「ニルヴァーナ」はヴェーダの経典の中ではあまり出てこない言葉ですが、「苦しみからの開放」つまり「モークシャ」を意味します。ブラフマン(唯一の存在、真実)を指すこともあります。仏教で言うと「悟り」でしょうか。

ヴェーダの経典で言われているモークシャ「苦しみからの開放、自由」は「絶対的」なものであり、殴られても痛くないとか、ゴキブリがいないとか、天国のような世界への現実逃避ではありません。

殴られて痛いにもかかわらず、にっくきゴキブリの存在にもかかわらず、「自由」なのが本来の意味のモークシャです。

「ラララ♪ランド」のようにいくら素晴らしいものであっても、体験で得られるもの全ては「比較的」なものであり、「終わりがある」ということを、経典は繰り返し言います。

つまり、「比較的」で「終わりがあるもの」が欲しいですか?そこを最終目的地に設定しますか?と私達に問いかけているのです。

「ラララ♪ランド」の存在を可能にしている何かがあるはずです。

「ラララ♪ランド」を体験する脳を脳として機能させている何かがあるはずです。

言うなれば、「ラララ♪ランド」から帰ってきた時に再会するであろう”苦しみ”の存在すらも可能にしているものです。

それを知りましょう、と経典は言っています。

激しく移り変わるこの世界と、私達が通りぬける様々な体験にもかかわらず、唯一変わらないもの。

それがブラフマン、「真実」であり、自分と世界の境界線がない「絶対的」に自由な「私」なのです。


せっかくのジル博士の素晴らしい知識と経験を取り違えて、目指すところを間違わないように。。

のためのノートでした。




photo credit: opensourceway via photopin cc

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